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美術史解説
日本建築史年表
縄文・弥生|日本の先史時代を通じて、人々は竪穴住居で生活し、何棟か集まって集落を形成していました 竪穴住居 高床式倉庫 飛鳥・奈良(寺院)|7世紀後半に入ると、遣唐使が頻繁に派遣され、唐の建築様式が導入されました 法隆寺 薬師寺 飛鳥・奈良(神社)|仏教建築の対抗馬として、神社建築も台頭して来ました 唯一神明造 大社造 住吉造 神仏習合|神社と寺院が結ばれることによって、新たな形式が生み出されました 日吉大社 密教|山岳信仰と結びつき、山林に寺院が建てられました 三仏寺投入堂 空海 最澄 浄土教|極楽浄土 ...
日本建築-外国人居留地
時代背景 日米和親条約 1853年、日本とアメリカとの間で「日米和親条約」が結ばれると、日本近海への西洋船の来訪が増加しました。しかしこの条約にはアメリカ有利の条項*が盛り込まれていたため、日本側の不満は高まって行きます。 アメリカの船が日本の港に寄港する際、日本の法律や手続きを拒否することができました。また、アメリカ船の乗組員が日本人に対して犯罪行為を行った場合でも、アメリカの法律が適用されるという条項が盛り込まれていました。 これに対して、幕府は自国の主権を守るために「異国船打払令」を出しました。この ...
日本建築-書院造・数奇屋
時代背景 接客空間の発展 信長・秀吉の時代を経て、戦国の混迷を抜け出すと、軍事ではなく、接客空間が求められるようになりました。 書院造 そして試行錯誤の末、「書院造」という一つの型が完成します。主に、城郭や寺院・武家の邸宅などの厳格な建物で用いられました。 風書院 ただ、形式化の一方で、その枠をあえて脱線する、遊び心に富んだ邸宅建築も表れました。数奇な人に造られた書院ということで、数奇屋風書院造と言われます。しかし、正式な建築には相応しくない格好であったため、主に山荘などで用いられました。 造形 建物の顔 ...
日本建築-大衆寺院
時代背景 寺院にも自営が求められる 18世紀に入る頃には、幕府や諸藩の財政は悪化し、寺社の造営を行う力を失っていました。そのため、各寺社は自らでの資金調達を迫られます。その方法として、「開帳」「勧化」など、民衆から銭を集めるための行事に力を注ぎます。 行事の集金化 「開帳」は本来、寺社の秘仏などを開扉して、人々と神仏を結縁する宗教行為でした。しかし、財政に困っていた寺院は、「開帳」を堂舎の建立や修理費用のための集金事業として活用するようになったのです。 経済力を身につけた民衆 寺院が疲弊していた一方で、民 ...
日本建築-黄檗宗
時代背景 黄檗宗を輸入 徳川幕府による鎖国の時代、外国との接触は制限されていました。しかし、大陸からの新しい影響がまったくなくなったわけではありません。1654年、明から渡来した隠元によって、禅宗の一派「黄檗宗」が持ち込まれます。そして四代目将軍・徳川家綱の加護を受け、1661年に宇治の万福寺を開きました。 黄檗宗は、禅宗の中でも実践的な哲学を重視しました。宗教的な理論や論理的思考よりも、自己の実践によって真理を理解することを目指します。 黄檗宗は、中国の禅宗である黄檗派と日本の臨済宗や曹洞宗が合流して誕 ...
日本建築-霊廟
時代背景 真の武家政治 室町幕府は、足利氏による武士の政権であるとはいいつつも、京に拠点を置き、貴族趣味的な文化の中で生きながらえ*てきました。貴族や寺院を保護し、彼らからの支援を受けることによって政権の基盤を固めていたのです。 ただ、戦国時代においては、戦国大名や戦国武将たちの興隆を支援することにも取り組んでいました。このことから、戦国大名たちとの関係性を軽視していたわけではないということが伺えます。 その一方で、江戸幕府は京から遠く離れた地に拠点を築き、武士階級が中心となる社会制度*を整備しました。武 ...
西洋建築史年表
古代ギリシャ|西洋建築の精神は、古代ギリシャを範とするところから始まります。その意味で、西洋建築史の出発点に相応しいと言えるでしょう パルテノン神殿 古代ローマ|「栄光の都」ローマ帝国という舞台は、古代ギリシャ建築とキリスト教建築の架け橋となりました コロッセウム闘技場 初期キリスト|西洋建築の代名詞、「教会建築」はここから始まります バシリカ式 集中堂式 ビザンティン|政治的な東西分裂は、建築様式にも影響を及ぼしました ハギア・ソフィア ロマネスク|別名「地方様式」とも言われるロマネスクは、各地の風土に ...
西洋建築-インターナショナル・スタイル
背景 近代芸術の到達点 アーツ・アンド・クラフツ運動*から始まった近代芸術運動は、当初は手工業に重点を置きながらも、デ・ステイル*やドイツ工作連盟*などを経て、機能主義にたどりつきました。 アーツ・アンド・クラフツ運動:機械生産による大量生産と標準化が進む一方で、一つ一つの製品としての質は悪化してしまいます。これに対し、手仕事や伝統工芸品を再評価することによって、製品の質を向上させることを目的としました。 デ・ステイル:芸術によって人々の生活環境を改善しようとした点はアーツ・アンド・クラフツ運動と同様です ...
西洋建築-ドイツ工作連盟
背景 アーツ・アンド・クラフツの影響 1907年、イギリスで始まった「アーツ・アンド・クラフツ運動*」の影響が、ドイツでは、「ドイツ工作連盟」の結成として表れます。彼らは、産業生産において芸術的な要素を取り入れることが重要であると信じ、芸術と工業の融合を目指しました。 アーツ・アンド・クラフツ運動:工芸品の制作において、芸術と工業を融合させることを目指した運動 アーツ・アンド・クラフツ運動では、手工業や小規模な工場に焦点を当てていた*ため、大量生産には対応できないという欠点を抱えていました。これに対し、ド ...
西洋建築-デ・ステイル
背景 第一次世界大戦後 第一次世界大戦後、各国の経済は混乱し、人々の価値観や生活様式も変化しました。ストライキやデモなども行われるようになり、社会変革が急務となります。これは戦争に参加しなかったオランダにおいても例外ではありませんでした。 オランダは、中立を守ることによって国内の平和を維持しようとしました。しかし周辺諸国の経済的混乱や政治的変化の影響を受けないわけには行かず、大量の難民や貧困層、失業者などを抱え、経済的・社会的な不安定さが続きます。そんな中、社会主義的な政策や労働者の権利擁護が唱えられるの ...
西洋建築-ドイツ表現主義
背景 第一次世界大戦 1914年6月28日、オーストリア皇太子夫妻がセルビアの首都ベオグラードで暗殺されるという事件が起こります。これをきっかけに、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告しました。そしてオーストリア=ハンガリー帝国の後ろ盾となっていたドイツも、この戦争へ参加することになります。 当初のドイツは、急速に発展し、経済的・軍事的な力を蓄えていたため、早期に勝利すると楽観的に考えられていました。しかし戦争の泥沼化によって戦況は逆転し、最終的には敗戦という結果を迎えます。 敗戦後のドイツ ...
西洋建築-ウィーン・ゼツェッション
背景 ハンガリー帝国の情勢 ウィーン・ゼツェッションは、1903年にオーストリア=ハンガリー帝国*の首都ウィーンで結成されたグループです。オーストリア=ハンガリー帝国は複数の民族や国家が集合した多民族国家であったため、深刻な民族問題を抱えていました。 ハンガリー帝国:中央ヨーロッパにかつて存在した帝国。現在のハンガリー、スロバキア、クロアチア、セルビア、ルーマニア、ウクライナ、オーストリアなどの地域を含んでいました。ハプスブルク家の君主がハンガリー王位を兼ねていたことから、オーストリア=ハンガリー帝国とし ...
西洋絵画−ドイツ表現主義
著作権に対する配慮:当記事に掲載している模写作品の中には、著作権保護期間中のものが含まれています。そのため、「引用元(元絵)の明記」・「引用の必要性」・「画像は自前で用意すること」を徹底した上で、当記事の作成に望んでいます。 舞台 ドイツ これまでフランスに押され気味であまり活躍の場がなかったドイツでしたが、遂に自国を始点とする芸術運動の波風が立ち始めます。というのも、「近代化」を急激に進めて行ったドイツでは、それだけ社会に対する不満も生まれやすく、「苦しみを表現する画家」たちを産むには最適な土壌だったか ...
西洋絵画−立体派〈キュビズム〉
著作権に対する配慮:当記事に掲載している模写作品の中には、著作権保護期間中のものが含まれています。そのため、「引用元(元絵)の明記」・「引用の必要性」・「画像は自前で用意すること」を徹底した上で、当記事の作成に望んでいます。 舞台 フランス 産業革命以来、急速な進歩によりもたらされた「世界の拡大化」は、多種多様な芸術運動の下、「専門化」・「分化」を押し進めました。そんな中で、新しい視覚体験が模索されます。そして、「形態」と「構成」の面で大きな変革が起きたのはフランスでした。 背景 感覚派から知性派へ 野獣 ...
絵画−野獣派〈フォーヴィスム〉
著作権に対する配慮:当記事に掲載している模写作品の中には、著作権保護期間中のものが含まれています。そのため、「引用元(元絵)の明記」・「引用の必要性」・「画像は自前で用意すること」・「非営利目的」を徹底した上で、当記事の作成に望んでいます。 舞台 フランス 産業革命以来、急速な進歩によりもたらされた「世界の拡大化」は、多種多様な芸術運動の下、「専門化」・「分化」を押し進めました。そんな中で、新しい視覚体験が模索されます。そして、色彩の面で大きな変革が起きたのはフランスでした。 背景 野獣派結成のきっかけ ...
西洋絵画−フランス象徴主義
印象派に並行して、象徴主義が発展 舞台 フランス 象徴主義は各国において多様な発展を遂げました。中でも大きな影響を与えたのは、フランスにおいて展開された象徴主義です。 背景 もう一つの芸術運動 19世紀後半、印象派が盛り上がりを見せていたその頃、並行して別の流れが形成されていました。 商業化する芸術 先導したのは、「科学」と「機械万能」という時代における「実利的なブルジョア精神」や、「芸術の卑俗化」に嫌気がさした画家たちです。 人間の内面を描く 彼らは、人間存在とその運命に関する「深い苦悩」・「精神性への ...
西洋絵画−後期印象派
一般に、スーラ・セザンヌ・ゴーギャン・ゴッホの四天王を総称して後期印象派と呼ぶことが多いです。しかし、当ブログでは個人的な趣きもあって、新印象主義(スーラ)・セザンヌ・後期印象派(その他の画家)という風に細分化しています。 舞台 フランス 印象派に続き、フランスが芸術の中心地として君臨しています。 背景 時代背景は主に新印象主義と同じです。 印象派の乗り越え 時代の寵児であった印象派も、1886年には最後の展覧会を迎え、いよいよ批判と反省の対象として乗り越えられる存在になります。 物の形を犠牲にした印象派 ...
仏教解説
最終話 釈尊の最期
釈尊八十歳、自分の死期が近いことを感じ取った彼は故郷を目指し旅立ちました。 その旅の道中、釈尊の側近であった阿難も釈尊の死期を薄々感じていたのか自分の悩みを打ち明けます。 「釈尊、あなたが亡き後、一体誰が教団の指導者となれば良いのか」 釈尊は答えました。 「そもそも私は教団の指導者ではない。教団に指導者は必要ない。大事なことは自らを灯明とし、自らを所依とすること、他人を所依とせず法を灯明とし、法を所依として他のものを所依としないことです」 釈尊は、「自灯明 法灯明」の姿勢を示したのです。 釈尊一向はクシナ ...
第六話 説法の始まり
いざ説法を決意した釈尊の頭に最初に浮かび上がったのは二人の師でした。彼らほどの実力者なら、自分の教えを理解してくれるだろうと期待したのです。しかしその二人の師はすでにこの世から旅立っていました。 そこで釈尊は五人の仲間を思い出します。彼らはかつて釈尊と苦行生活を共にした仲間でした。まずは彼らに法を伝授しようと考えたのです。 しかし五人の仲間は釈尊を拒みました。彼らにとって釈尊は苦行生活を途中で投げ出した裏切り者だったからです。 それでもかつては苦を共にした仲間、彼らにも迷い・情けがありました。 いつまでも ...
第五話 釈尊の葛藤
釈尊は絶望していました。私の得た法、これはあまりにも難しく、世間からそう理解されるものではない。私が法を説いたとて、世間の人々に理解されないのであれば、それは単なる徒労に終わるだけであろう、、、 しかし釈尊には葛藤がありました。果たして、自分の得た法を自分一人で完結させても良いのだろうか?釈尊の心には、法を求める 世間の人々の姿が浮かんでいたのです。 そして遂に、釈尊は自ら法を説くことを決心します。これはかなり大胆な決心でもありました。 それというのも当時のインド正統派宗教では教えは秘義とされており、限ら ...
釈尊の生涯
第一話 釈尊の誕生と時代背景 第二話 出家の決意 第三話 苦行生活 第四話 仏陀の誕生 第五話 釈尊の葛藤 第六話 説法の始まり 最終話 釈尊の最期
第四話:仏陀の誕生
苦行生活 苦行生活6年-極端な断食や心を統制して呼吸を止めるなど、太子は考え得る苦行を手当たり次第実修していました。 やがて太子の身体はやせ衰え生きた屍のようになります。それでも一向に光が見えて来ませんでした。太子は思いました。このまま苦行を続けてもいたずらに肉体を疲弊させるだけで、かえって精神をもうろうとさせて いるだけではあるまいか?これでは迷妄を断ち切るなど出来るはずもない。むしろ肉体は健全に保たなければならない。そしてついに苦行を捨てるのです。 釈尊、目覚める 苦行を捨てた太子は、最後の決心を持っ ...
第三話:苦行生活
出家修行の始まり いざ出家修行の旅に出た太子は、托鉢乞食をしながら自らの師となるべき人物を求めて訪ね歩いていました 彼の向かった先は新興気運みなぎる一つの中心地 -マガダ国ー王舎城 ここでは多くの碩学高徳が集めり競い合っていました。 師匠との出会い ここで太子は二人の修定主義者と出会います。アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ ラーマプッタです。 修定主義とは精神を統一し邪念を制御することで肉体との関わりから生ずる物質的欲望を抑えることを理想に掲げる考え方です。私たちの邪念の根源である意識を滅ぼすことによっ ...
四法印
四法印は、平たくいえば、縁起の理法を理論化したものです。縁起の理法については、以下の記事で解説していますが、少しおさらいしておくと、此縁性果、すなわち、一切の存在は、互いに関係し合っているということです。すべての事物には、原因と縁があって、またすべての事物は、他の事物の原因と結果になるということ。例私が万引きをした原因お金がなかった。結果、お店が赤字になった。 今は、簡単な例を挙げて、物事の関係性を解説しましたが、これを理論化しようという試みが、四法印です。他にも、有支縁起や四諦八正道など、縁起の理法を理 ...
四諦八正道
四諦八正道とは、平たくいえば、縁起の理法を理論化したものです。縁起の理法については、以下の記事で解説《縁起の理法》していますが、少しおさらいしておくと、此縁性果、すなわち、一切の存在は、互いに関係し合っているということです。すべての事物には、原因と縁があって、またすべての事物は、他の事物の原因と結果になるということ。 例 (事物)私が万引きをした ↓ (原因)お金がなかった。 (事物)私が万引きをした ↓ (結果)お店が赤字になった。 今は、簡単な例を挙げて、物事の関係性を解説しましたが、これを理論化しよ ...
有支縁起
有支縁起とは、平たくいえば、縁起の理法を理論化したものです。縁起の理法については、以下の記事で解説《縁起の理法》していますが、少しおさらいしておくと、此縁性果、すなわち、一切の存在は、互いに関係し合っているということです。すべての事物には、原因と縁があって、またすべての事物は、他の事物の原因と結果になるということ。 例 (事物)私が万引きをした ↓ (原因)お金がなかった。 (事物)私が万引きをした ↓ (結果)お店が赤字になった。 簡単な例を挙げて、物事の関係性を解説しましたが、これを理論化しようという ...
縁起の理法
簡単に説明すると・・・ 縁起の理法は、釈尊が悟った「この世の真理」です。では、釈尊が求めていた真理とは、そもそも何だったのか?それは、苦しみからの解放。もっというなら、「死の恐怖」を克服することでした。 その結果、たどり着いたのが、「実体はない」という考え。「すべては関係性である」と考えたのです。これは言い換えれば、「執着心を手放す」ともいえます。"自分が"死ぬ、この自分という部分への執着が、死への恐怖を招いているからです。そうではなくて、自分には、自分が生まれてくる前があって、自分が死んだ後があるという ...
思索と表現

真宗大谷派僧侶
二級建築士(登録番号57877号)
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