作品№84
今回の作品は、「建築に宗教が求められる理由」です。特に私の場合、建築の学校を出てから、僧侶になった身ですから、よく「思い切った決断をしたね」とか、「建築と仏教って全然関係ないのに、よくこの道に入ろうと思ったね」とか、「建築を捨てて宗教の世界に入るなんて、変わってるね」と周りの人から言われがちです。でも、私からすると、建築を捨てて仏教の道に入ったつもりは全くなくて、建築に宗教は必要ですよね、だから宗教を学ぼう、というのが本音です。 じゃあ、実際建築と宗教にはどのような関連性があるのか?例を挙げてみましょう。 ...
作品№83
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作品№82
今回の作品は、「伝達の不可能性」です。これは私の造語なんですけど、要するに、完璧な伝達は不可能であるということです。よく、「言葉で言ってくれないと分からない」なんていいますけど、結局言葉で言ったところで、分からないものは分かりません。「私はこれだけ一生懸命伝えているのに、なんでこの人は全然分かってくれないんだろう」、と相手に苛立ちを覚えたり、逆に、相手の言葉尻だけを捉えて、相手のことを分かったような気になってしまったり、、、こういうのって、言ってしまえば、伝わるのが当たり前みたいになっています。でも、実際 ...
作品№81
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作品№80
今回の作品は、「作られたものから作るものへ」です。絵の元ネタは、パウル・クレーのこちらの図なんですけど、これをあえて難しく解釈して、私なりの結論に導いたのが今回の作品です。ちなみに、この図はバウハウス業書の教育スケッチブックという本に出て来ます。2000円ほどで買えますので、興味のある方は、実際に自分で読んで見るのもいいかも知れません。 受動と能動 まず、作品タイトルの「作られたものから作るものへ」というのが、私の結論になります。これは西田哲学、西田幾多郎の代名詞ともいえる言葉で、受動的な存在から能動的な ...
作品№79
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作品№78
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作品№77
今回の作品は、「覚知的無知」です。中世の思想家、ニコラス・クザーヌスに代表されるこの言葉ですが、もう少し聞き馴染みのある言葉に変換すると、「自分が知らないことを知る」ということ。誤解を生まないように、もう少し言葉を変換すると「自分が知り得ることの限界を知ること」です。たとえば、極論をいうと、私たちは自分の目を自分の目で見ることは出来ません。鏡を使えば、一応は見ることが出来るかも知れませんが、自分の目で直接視ることは出来ません。ここにまず、自分の能力の限界があります。ただ大事なことは、その自分の限界を知って ...
作品№76
なぜ難しく言うのか 今回の作品は、「難しいこと」です。特に私みたいに、難しいことを言いたがる人は、周りから「難しくいって誤魔化している」といわれがちです。なぜ私のような人種は、難しいことを言いたがるのでしょうか?今回は、その理由を、この絵と共に解き明かして行きましょう。 分かりやすいは本当に分かりやすいか まず、皆様にとって、分かりやすい絵というのは、このような絵ですよね。「綺麗な山だな、綺麗な湖だな」と一目見て分かります。 でも、これがこうなると、「なんじゃこりゃ」ってなっちゃいます。何となく山を描いて ...
作品№75
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