今回の作品は、「世界の自業自得―試される実践理性」です。環境の制限を受けながらも、それでも自由な意思を発揮しようともがく、そのような世界観を描きました。これはいわば、私なりの実存哲学です。
他人事じゃない
たとえば、何か事件が起きた時に、まるで性格の悪い人が突然社会に現れてきたかのようにいわれたりします。こんなことができるなんて人間じゃない、悪魔だ。こいつは異常者だ、というふうに、自分とは全く違う世界から突如として現れてきたかのように語られたりします。しかし実際のところ、犯罪者というのは、私たちの日々の社会の営みの中から生まれてきます。穏やかに暮らす人の裏では血が流れており、裕福に暮らす人の陰では、空腹に苦しんでいる人がいる。こういった歪みに蓋をしても、隠しきれなかったもの、それが犯罪者という形を持って現れてきた、そういう一面もあるはずです。
要するに、犯罪者は私たちの社会とは無関係に、全くの外部から突如やってくるのではなく、私たちの社会の内側から現れるのです。
世界の自業自得
犯罪者の過去を掘り下げれば、おそらく、いじめや貧困などの、社会的事件が発見されるはずですから、それは世界という観点から見れば、世界が個人を苦しめ、個人が世界を苦しめているといえます。世界によって苦しめられた個人が、逆に世界を苦しめる、世界に復讐する。世界はまさに、自分の為したことの報いを受けているわけです。これが「世界の自業自得」という作品タイトルのゆえんです。
試される実践理性
しかし、今回の作品で最も大事なことは、ここではありません。社会が犯罪者を生んだのだから、社会が悪い、環境が悪い、世界が悪い、こういうことを言いたいのではありません。むしろ余白の部分。私たちは社会や環境から様々な制限を受けているにも関わらず、それに抗い、自由な意思を発揮しようとする。それがこの余白の部分なのです。
たしかに、因果関係を紐解けば、多くのことは解決できるかも知れません。この人はなぜこういうことをしたのか?それはこういう原因があったからだ!と。しかし、それがすべてなのであれば、私たちには自由な意思などありません。すべてはあらかじめ因果によって決められていたのだ、こうなります。そうではなくて、この因果から飛躍する何かがあるのではないか?すなわち、自由を求める意思、あるいは自由という義務や責任、それが私たちに試されているのではないか?だからこの作品の副題は、「試される実践理性」なのです。
ここでいう実践理性とは、私自身の決意、すなわち選択です。この時点ではまだ何も選択されていませんから白紙です。白紙ということは選択肢があるということです。私が私自身を選択することによって、世界を選択する。これが実践理性です。しかも、それに伴い、私は自由という責任を引き受けることになります。この重荷は私を不安にさせます。しかしこの不安を通じて、私は真に実存として生きるのです。