作品№68

今回の作品は「露出強建築」です。「露出強の家に住んでる人は、露出狂だ」なんて冗談はさておき、早速作品の解説に入りましょう。

まず、このような住宅は「海外の映画」とかではよくありがちなんですけど、日本の街中で見掛けることは滅多にないと思います。もちろん、お店とかの場合だと、店内の様子を外に見せたいですから、全然普通のことなんですけど、普通の住宅でこんなことしちゃうと、自分の生活が丸見えになっちゃいますから、嫌ですよね。でも、これはさすがに極端だとしても、これに近い住宅は、ちょいちょい見掛けます。どういう意図があったのかは本人にしか分かりませんが、大きなガラス張りからは、中の様子が丸見え。結局、カーテン閉めっぱなしになっちゃうのがオチです。もちろん、実際に住んでみて初めて分かることもありますから、それ自体は仕方のないことですが、私はそれだけではなくて、建築家のエゴみたいなものも混ざっているような気がします。

そもそも、何でガラス張りの露出度が高い住宅を建てようと思うのか?日当たりをとるにしては大げさに思えますし、ましてやカーテンを閉めるようでは、元も子もありませんから、それを直接の理由にすることはできないでしょう。

また、外の景色がよく見える、というのも、一見もっともらしく思えますが、普通の住宅街だと、そんな見るべき景色もありませんから、これもやっぱり少数派の意見だと思います。

じゃあ、一体どういう理由があるのか。私はこれだと思います。ミースの「ファンズワース邸」。建築学科生なら一度は授業で習う、そしてお手本とされる建築。実際かっこいいですから、憧れる気持ちはとても分かります。でも、憧れが先行し過ぎて、形だけ真似ちゃった、みたいなパターンも、割りとあるのではないかな、という気がしています。

ミースに限らず、近代建築には、ガラス張りのかっこいい建築がたくさんあります。こういうのが大量に載っている建築雑誌なんかを見ていると、自分もこれを作らなきゃ、という気持ちになっても不思議ではありません。

ところで、近代建築にガラス張りが多いのは何ででしょうか?私の予想としては、ガラス張りが、近代の技術からすると革命的だった、ということが大きいように思います。ガラス張りはどうしても、構造的な欠陥となりますし、普通の壁と比べて、弱点が多いです。普通なら避けたいところですが、それが容易に取り入れられるだけの技術がやってきた。「すげー、いよいよこんなことができる時代になったか!」と。今でいうチャットGPTみたいな感じで、あんな使い方もできる、こんな使い方もできる、とみんながみんな模索しあっていた状態。だから近代の場合、ガラス張りを取り入れること自体に意味があったといえます。

日本だと、妹島和世さんが有名です。最近の動向は分かりませんが、妹島さんというと、軽さが一つの特徴となっていて、細い柱や、ガラス張りが、その軽さを演出するための手段となっているわけですね。これはガラス張りを上手く活用できている例です。商業施設を手掛けることの多い建築家にとっては、相性が良いのかも知れません。逆に、京都にある、妹島さんのガラス張りが発揮された集合住宅を見に行った時は、建物を見ているというよりは、カーテンを見に行った気分でした。どうせこんなことになるのなら、ガラス張りの意味なくないですか、、、なんて言おうものなら、妹島ファンに叩かれることでしょう。

どちらにせよ、近代においては、ガラス張りを使うこと自体に意義があったわけです。でも、一世紀建ってもまだガラス張り自体に意義を感じて、ガラス張りをするためにガラス張りをするというのは、ちょっとナンセンスな気がします。もちろん、何らかの意図を持ってする分にはいいと思いますが、なるべく避けて欲しいところです。

それというのも、なんだか、ズボンのチャックが空いている人を見ているみたいで、こちらも見るつもりがないのに、目が行ってしまう、しかも見てはいけないものを見たような気持ちになってしまう。夜はとくに、部屋の明かりがライトアップみたいになって、なおさら目立ちますから、通行人の心理としては気まずいわけですね。隠すところはしっかり隠して欲しいところです。

様式解説

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-令和四年作品