今回の作品は、「純粋理性批判に基づく色彩論」です。
純粋理性批判
「純粋理性批判」というのは、18世紀にドイツの哲学者イマヌエル・カントによって書かれた本で、超難解+少々長いということでも知られています。僕も何回か挑んでは、挑んだ分だけ挫折しています。ただ難解であると同時に、最重要な本でもあり、度々他の哲学書にも、この純粋理性批判の概要が出できますので、間接的には説明できるかなというところです。
認識主観
一応ざっくり説明しておくと、この本で扱っているテーマの一つが「認識主観」というもの。主観と客観は皆様も聞き馴染みがあるかと思いますが、認識主観は、とりあえずその中間ぐらいのイメージで捉えてもらえるといいかなと思います。
たとえば、「客観的に見て、ワクチンは打っておいた方がいい」、こう言ったとします。でも、ここでいう客観は、本当の意味での客観ではありません。ワクチンが推奨されている国では、それが客観的な見解であっても、ワクチンが歓迎されていない国では、その反対かも知れない。あるいは、百年後にワクチンの欠陥が発見されたとしたら、その百年後の人たちから見た客観では、ワクチンは打つべきではない、となりますよね。要するに、この場合の客観というのは、あくまでも主観を通して見た客観になります。あんまり言葉で説明してもややこしくなるので、実演してみましょう。
実演
たとえば、今見えている色というのは、白い光の下で見えていますが、これが赤い光に変わると、もちろん色の見え方も変わります。
赤い光ではこのように見え、
白い光ではこのように見える。それじゃあ、この絵の元々の色は何色なのでしょうか。
結論をいうと、それは分かりません。私たちは、光を通してじゃないと色を認識出来ないからです。これが先ほどお話しした、主観を通して客観を見る、ということに繋がります。
そして大事なことは、主観を通して見る以上は、この色そのものを見ることはできないということです。言い換えれば、見る人の条件によって、色は変わります。この絵で表しているのも、まさにそのような世界観です。
この鯉か何か分からない物体が、真の客観であるとすれば、
私たちはこの物体を、虫眼鏡を通さなければ見ることが出来ません。もちろん、この虫眼鏡が表しているのは主観で、この虫眼鏡を通して見えている画面が認識主観です。
相対主義ではない
大まかな内容は、これで伝わったかと思いますが、最後に少しだけ、捕捉しておこうと思います。それは、今回の話しは、「絶対的な認識はできない」ということであって、=「絶対的な答えはない」ではないということです。一見同じような言葉を二つ並べているようにも見えるんですけど、この二つを混同しちゃうと、大分意味が変わってきてしまいます。
まず、「絶対的な答えはない」そう言いきってしまうと、話は相対論に進んでいきます。答えはないんだから、各々の道を行こう、みたいになりかねません。確かに、事実として、人は主観的な目線でしか物事を見ることが出来ない、これはもうその通りです。どれだけ客観的に意見しようとしても、最終的には、それはあなたの意見ですよね、ってなっちゃう。これは先ほどお話した通りです。
でもだからといって、「みんなそれぞれが正解です。自分の思うように生きて下さい」っていっちゃうと、それは独我論になっちゃいます。独我論の行き着く先は、強い人・声の大きい人の意見が通る世界。これは当然、カントの望んだ結論でもなければ、私がこの絵で表したかった世界観でもありません。
もの自体
カントは純粋理性批判の中でもう一つ、「もの自体」という概念を提示しました。もの自体、つまり、私たちには認識できないけど、確かにそれがあるということ。この絵でいうところの、この物体です。私たちはこの物体を直に見ることは出来ませんが、それはあくまでも、私たちには見ることができないということです。これは私たちの限界であって、世界の真理とかそういうものとはまた別問題です。自分たちには分からないものがある、それを自覚した上で、自分の意見を持つ、これが一番大事なのではないかと思う次第です。