今回の作品は、「作られたものから作るものへ」です。絵の元ネタは、パウル・クレーのこちらの図なんですけど、これをあえて難しく解釈して、私なりの結論に導いたのが今回の作品です。ちなみに、この図はバウハウス業書の教育スケッチブックという本に出て来ます。2000円ほどで買えますので、興味のある方は、実際に自分で読んで見るのもいいかも知れません。
受動と能動
まず、作品タイトルの「作られたものから作るものへ」というのが、私の結論になります。これは西田哲学、西田幾多郎の代名詞ともいえる言葉で、受動的な存在から能動的な存在への超越、即ち創造の哲学です。実際、クレーの図にも、能動・受動という言葉が書き込まれていますから、あながち的外れでもないでしょう。ここから私のこじつけが始まります。血液を送り出す、血液が動かされる、そして動かされるという動きが、また血液を送り出す、血液が動かされる、この終わりもなく始まりもない能動と受動の循環、私はこのように解釈したわけです。作られたものは作るものでもあって、作るものは作られるものでもある、これが受動から能動への超越であって、しかも能動から受動への降下でもある。その典型例は、私たち人間です。人間は気が付いたらこの地球に産み落とされていました。自分の意思で地球を選んで、この時代を選んだわけではありません。その意味で、人間は作られた存在です。その一方で、人間は様々な発明を行い、自分たちに都合の良い環境を作り上げてもきました。馬は人間なしでも存在しましたが、車は人間なしには誕生しないはずです。朝・昼の明かりは自然界に元々存在しますが、夜の光は人間の発明です。テレビやネットなどの娯楽を楽しむ、これも人間が作らなければ、自然界には元々存在しなかったもの。このように、人間は環境を作る側でもあるのです。「作られたものから作るものへ」、ここまでの話は、まだ難しくないでしょう。ここからさらに話を難しくするために、ハイデガー哲学を導入します。
世界投企
作られたものから作るものへの超越、これをハイデガー用語に変換すると、存在するものから存在への超越となります。この場合の超越とは、現存在が存在するものとして世界の中に現れること。世界とは、現存在が未来に向かって世界を計画することで、自己自身のために実存する、そのための場所です。これは世界投企とも呼ばれ、かくして存在するものは現存在に対して世界に登場するのです。
さて、わざわざ難しい言葉を並べたわけですが、これはただ言葉遊びをしたかったわけではなくて、クレーの図に出てくる、この中間領域という言葉、これを解釈するためです。先ほどの話に繋げると、この中間領域は現存在です。現存在が世界企投として自ら世界を始める、これがこの図でいうところの、ポンプで血液を送り出すということです。ここから存在するものが始まる、そしてその始まりは、現存在に有限性という限定を与えます。要するに、存在が時間を持つということです。時間を持つことによって、存在するものとして、私たちは世界に現れるのです。
しかし、時間を持つということは、やがて終わりがやってくるということを意味します。無に帰するということです。しかも、その無に帰するということが一体どういうことなのか?いつそれがやってくるのか?何も分かりません。それゆえ、私たちには不安という概念が生まれます。この不安こそは、実存哲学の核となるものです。これについつては、「不安という概念」という作品の解説動画で、詳しくお話させていただきます。近日中に公開する予定ですので、しばしお待ち下さい。