この絵が収録されている画集
今回の作品は、世界の起源です。
本家はどんな絵
美術に関心のある方でしたら、すでにお察しかも知れませんが、元ネタはギュスターヴ・クールベの「世界の起源」です。本家の絵を知らない方のために、ざっくり説明しておくと、女性のおまたがドアップになっている絵ですね。一応言っておきますけど、これからする話は、いたって真面目な話ですよ。そこは誤解しないで下さい。
まず、このおまたが「世界の起源」であるとはどういうことか?それはおそらく、このおまたのおまたが私たちの始まりである、ということです。私の人生はどこから始まったか?それはおまただ。クールベはこういうことを言いたかったんじゃないかな、と私は解釈しています。ただ、これはいってしまえば、人間の起源であるわけで、もっというなら、私の起源であるわけで、「世界の起源」というには、やや主観に偏っている気もします。実際、クールベ自身の性格も、「俺か俺以外か」みたいな感じだったらしいので、クールベの世界観を表す、という意味では、「(俺=)世界の起源」で全然問題ないんですけど、私はここに客観的な世界観を組み込みたいな、と思いました。そうして出来上がったのが、今回の作品です。
絵の解説
ここがおまたですね。「いや~、いかがわしいもの描いてる」と思った方もいるかも知れませんが、先ほど申したように、これは真面目な話です。
これは何を表しているかというと、「円」と「直線」、すなわち、「無限」と「有限」です。この「無限」と「有限」との関係性が世界の起源であると、そういう意味合いで描いています。本当ですよ、こじつけじゃないですよ。
実演
久しぶりに、実演してみましょう。
このポテチのフタ、これは円ですよね。円には始まりも終わりなく、永遠にぐるぐるしています。だから無限です。
でも、これを横から見ると、直線になって、始まりと終わりが現れます。要するに、有限なわけです。逆に言えば、直線は、横から見ると円になります。有限は無限でもあるわけです。このように、円と直線、無限と有限は、完全に別物というのではなく、同じものの見方を変えたもの、といえます。一般的には、無限>有限、という印象を抱かれがちですが、必ずしもそうとは限らないのです。
思考実験
次は数字で考えて見ましょう。
無限(∞)と有限(12345)。一見すると、無限の中に有限な数が含まれていると考えられます。無限というのは、123456789・・・ですから、その中に12345が含まれているではないか?と。確かにその通りです。
でも、見方を変えて、今度は有限の側から見ていくと、確かに12345という数字は有限の数ですけど、数えようと思えば延々数えられますよね。12345678910111213…というように。そうであれば、この有限の数には、無限の運動が含まれているわけです。要するに、有限の中に無限が含まれている、こういう言い方もできます。
有限=無限
だから、有限と無限、ここにはどちらが上とか下という関係性があるのではなく、あくまでも=なわけです。有限が無限を含み、無限が有限を含む、これは矛盾しているんですけど、この矛盾こそがかえって世界そのものである。専門的な言葉を使うと、これは絶対矛盾的自己同一であり、それを成立させる「絶対無の場所」、これが「世界の起源」なのだ、この絵は、そのような世界観を表しているのです。
絶対無とは
「絶対矛盾的自己同一」や「絶対無」については、今後の作品でもしばしば登場する予定ですので、今回は軽い説明に留めておきます。
まず、「絶対無」というのは、西田幾多郎さんを始めとする、京都学派でしばしば用いられる言葉です。おおまかな概要としては、先ほどもお話したように、世界は矛盾である、ということ、これが基本になります。
鶏が先か?卵が先か?
たとえば、鶏が先か?卵が先か?という話があります。鶏は卵から産まれますが、卵は鶏から産まれる、では、最初にあったのは鶏か?卵か?というものですね。鶏が先なら、その鶏はどのようにして産まれたのか?卵が先なら、その卵はどのようにして産まれたのか?これは矛盾です。そして、この矛盾を解決しよう、というのが従来の学問であったならば、「京都学派」は、その矛盾を解決しようとはしない。むしろ、その矛盾こそがありのままの世界なのだ、と受け入れます。
要するに、卵が先か?鶏が先か?ではなく、鶏が卵から産まれ、卵が鶏から産まれるという事実を、ありのままに受け入れるのです。その根拠が「絶対無」なのです。円と直線の話が、まさにそうですよね。無限と有限は、一見相反するものと考えられる。宇宙は有限か無限か、という話がその典型です。でも無限か有限か?ではなく、無限=有限、有限=無限、これが世界のありかたなんだ、と考えるのが「絶対無」なのです。だから世界の起源は絶対無、無限は有限であり、有限は無限である、ということになるんです。
仮に、世界が絶対無でないならば、二元論に陥らざるを得ません。鶏が先か?卵が先か?ここで鶏を選択するということは、卵を見捨てることになり、卵を選択するということは、鶏を見捨てること。もっと具体的な例を挙げると、トロッコ問題というものがあります。
トロッコ問題
自分がトロッコを運転していて、その線路の先に、五人の作業員がいる。このままだと、その五人をひいてしまうので、線路を切り替えたい。でも、切り替えた先の線路にも、一人の従業員がいる。さて、一人の命を犠牲にして五人を助けるべきか?線路を切り替えずに、そのまま五人を犠牲にしてしまうか?この場合、二元論だとどちらかを正解としなければなりません。それが二元論の宿命です。一人の命よりも五人の命の方が重いと考えるか、あるいは、自分の意思を介入させるべきではない、五人にとっては、それが運命だったのだ、と考えるか?他にも色々な考え方があると思いますが、いずれにしても、一方を選び、一方を捨てなければならないのです。
それに対し、絶対無の考え方では、そのどちらかを正解と言うことはできない。ここにあるのは、正解ではなく、ただただ矛盾です。正解がないなかで、自分の意思で、責任を持って、選択しなければならない。しかもその選択は、正解でもなければ間違いでもなく、間違いであると同時に、正解でもある、このありのままの事実をそのまま受け入れる。なんだか、禅問答みたいですね。これが、絶対無のおおまかな雰囲気です。