舞台
フランス
革命期からナポレオン時代にかけてのフランス。ナポレオンは絵画を、自らの理念の「プロパガンダ」として活用しました。そのため、絵画は記録的な意味合いを強めます。
背景
軽快なロココに対する反動
18世紀後半、「快楽主義的」で「感覚的」なロココ様式に対する反動として、美は表面的なものでなく「崇高」なものであると考える傾向が強まります。
崇高さを追求
そして、「装飾趣味」や「官能的な裸婦像」に代わって、「形而上的な内容」や「簡素で壮大な形態感覚」を備える古典美術が範とされました。
特徴と画家
相次ぐ古代遺跡の発見
18世紀前半、火山の噴火によって埋没したローマの町「ヘルクラネウム」・「ポンペイ」の遺跡が発見されたことを皮切りに、古典趣味が再燃します。
より精密な古代研究
そればかりか、「古代ギリシャ」・「古代ローマ」を自分たちの規範にしようとする動きさえ現れました。
『ギリシャ芸術模範論』が大きな衝撃を与える
その理論的支柱となったのは、思想家ヴィンケルマンの著書「ギリシャ芸術模範論」です。
この書物は、「芸術が自然の理想化であるべきこと」・そしてそれを「既に実現しているのが古代ギリシャの芸術」であるということ・故に「古代ギリシャを範とすべきこと」を説き、ヨーロッパ中に大きな反響を呼びました。
絵画に視覚的な記録という役割が与えられる
新古典主義を代表する画家は、ダヴィッドです。彼は革命勃発とともに美術関係の制度改革に携わった人物であり、新古典主義の頂点ともいえる作品を多数手掛けました。それは「革命の視覚的記録」ともいえるものでした。
ジャック・ルイ・ダヴィッド|1748−1825|フランス
ナポレオンによる帝政の開始とともに、「皇帝の主席画家」という称号が与えられたダヴィッドは、「統を重んずる整った形式」・「記録的な写実」を主な特徴とします。
ナポレオンの失脚
皇帝の画家であったダヴィッドは、ナポレオンと道を共にする運命にありました。実際、ナポレオン失脚時にはダヴィッドも地位や名声を失うばかりか、亡命を余儀なくされます。
そして王政復古期、ダヴィッドの後継者として期待されたのはアントワーヌ・ジャン・グロです。しかし彼は、師の教えと自らの資質が相反するものであるという板挟み状態に苦しみ、そのせいもあってか自死を選んでしまいます。
静的な作風や線の強調
グロに代わる芸術の指導者として選ばれたのは、アングルでした。彼は終始、「色彩に対する線の優位」・「静的構図」という新古典主義の網領を守り続けました。
ドミニコ・アングル|1780−1867|フランス
しかしその一方で、彼の描く人体に目を向けると、「古典主義的な理想美」よりも彼の「個人的な美意識」に従っているのが分かります。これは当時の人々からは当然、避難の声が浴びせられることになりました。
参考文献
美術史〈西洋〉|編・中山公男 中森義宗|近藤出版社
西洋美術史|監修・高階秀爾|美術出版社
西洋絵画史入門史|著・諸川春樹|美術出版社
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