2025年4月24日
西洋建築-アール・ヌーヴォー
背景 新様式の準備 19世紀末、産業革命によって工業製品の生産が増え、大量生産や機械化が進む中で、人々の間に単調で機械的なデザインに対する反発が生まれていました。その代表格がアーツ・アンド・クラフツ運動です。彼らは手作りを重視することによって、自然の美しさや個性の再評価を図りました。 アーツ・アンド・クラフツはこの記事で解説 》建築-アーツ・アンド・クラフツ アーツ・アンド・クラフツ運動は、その理念こそ前進的であったものの、しかし中世主義という性格から、近代化と言える段階にまでは至れませんでした。その代わ ...
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2025年4月24日
日本建築-禅宗様
時代背景 禅宗の伝来 12世紀末、栄西によって日本に禅宗がにもたらされました。禅宗では、これまでの仏教とは教義や儀式も異なるため、僧の生活や建築も変化していきます。 禅宗:仏教の教えを直接実践することで、真実を見出すことを目指します。基本的な修行としては、座禅が挙げられます。 14世紀頃までには、確固たる地位を築き上げることに成功しました。その背景には、得宗政権*や室町幕府が、既存の権門体制に代わる宗教勢力として、禅宗寺院に焦点が当てられたということがあります。得宗政権や室町幕府の支援を得て、禅宗は広く普 ...
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2025年4月24日
西洋建築-ビザンティン
背景 首都『コンスタンティノポリス』の誕生 330年、コンスタンティヌス大帝は、ローマ帝国の首都をギリシャの都市ビザンティウムに遷都します。その後、この都市はコンスタンティノポリスと名を改めました。 ビザンティウムに遷都したのは、ローマ帝国が内部の政治的・経済的・軍事的な問題や外敵の侵攻に直面していたためです。東方からの侵攻に備えるために、軍事上の要地でもあったこの地が選ばれました。 西洋社会の東西分裂 395年には、帝国は東西に分裂。ローマを首都とする西ローマ帝国、コンスタンティノポリスを首都とする東ロ ...
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2025年4月24日
西洋建築-デ・ステイル
背景 第一次世界大戦後 第一次世界大戦後、各国の経済は混乱し、人々の価値観や生活様式も変化しました。ストライキやデモなども行われるようになり、社会変革が急務となります。これは戦争に参加しなかったオランダにおいても例外ではありませんでした。 オランダは、中立を守ることによって国内の平和を維持しようとしました。しかし周辺諸国の経済的混乱や政治的変化の影響を受けないわけには行かず、大量の難民や貧困層、失業者などを抱え、経済的・社会的な不安定さが続きます。そんな中、社会主義的な政策や労働者の権利擁護が唱えられるの ...
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2025年4月24日
日本建築-外国人居留地
時代背景 日米和親条約 1853年、日本とアメリカとの間で「日米和親条約」が結ばれると、日本近海への西洋船の来訪が増加しました。しかしこの条約にはアメリカ有利の条項*が盛り込まれていたため、日本側の不満は高まって行きます。 アメリカの船が日本の港に寄港する際、日本の法律や手続きを拒否することができました。また、アメリカ船の乗組員が日本人に対して犯罪行為を行った場合でも、アメリカの法律が適用されるという条項が盛り込まれていました。 これに対して、幕府は自国の主権を守るために「異国船打払令」を出しました。この ...
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背景
首都『コンスタンティノポリス』の誕生
330年、コンスタンティヌス大帝は、ローマ帝国の首都をギリシャの都市ビザンティウムに遷都します。その後、この都市はコンスタンティノポリスと名を改めました。
ビザンティウムに遷都したのは、ローマ帝国が内部の政治的・経済的・軍事的な問題や外敵の侵攻に直面していたためです。東方からの侵攻に備えるために、軍事上の要地でもあったこの地が選ばれました。
西洋社会の東西分裂
395年には、帝国は東西に分裂。ローマを首都とする西ローマ帝国、コンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国に分断されてしまいます。そして帝国の分裂はそのままキリスト教会の分裂を意味しました。西はカトリック教会、東は正教会です。
カトリック教会:現在、世界で最も多くの信徒を有する教会の一つ。中世ヨーロッパにおいては、キリスト教世界の中心的な役割を果たし、芸術、文化、教育、慈善事業などに貢献しました。
分裂の要因としては、一つに地域的・文化的な違いがあります。東ローマ帝国側は、ギリシャ文化やキリスト教の影響を強く受けており、一方で西ローマ帝国側は、ラテン文化や古代のローマの伝統に基づいていました。
東ローマ帝国の滅亡
西ローマ帝国は、5世紀から6世紀にかけて徐々に衰退し、最終的には476年に滅亡してしまいますが、一方東ローマ帝国は、東方で独自の文化や政治を発展させ、11世紀まで存続しました。
しかし12世紀を過ぎると、外敵の侵攻*や内部の政治的混乱*、経済的な要因*によって東ローマ帝国も衰退して行きます。1453年、オスマン帝国の軍勢によってコンスタンティノープルが陥落。東ローマ帝国は滅亡を迎えました。
①外敵の侵攻:東ローマ帝国は、多くの時代にわたって周辺国や異民族の攻撃に晒されていました。②内部の政治的混乱:皇位継承において起こる争いや、官僚制度の腐敗、貴族や地方豪族の反乱などが、政治的不安定さを引き起こしました。③経済的な衰退:東ローマ帝国は、西欧諸国と比べて地理的に不利な条件にあり、商業的な活動が制限されることが多かったため、経済的に衰退していきました。
ビザンティン文化の継承
しかし、その後もビザンティン文化そのものはギリシャやロシアへと広まり、発展を続けました。
特徴
統一制に欠けるカトリック教会
カトリック教会は世俗的な体制から独立した存在として、世界全土に君臨しようと図りました。しかしその支配域の広さから管理体制は盤上といかず、固有の様式と呼べるものは生まれませんでした。
聖俗両界の実権を握った正教会
一方で、正教会は皇帝という聖俗両界*にわたる権威によって統制されていました。そのおかげで、長期にわたる一つの様式が形成されたのです。これをビザンティン様式といいます。
聖俗両界:中世ヨーロッパにおいては、教会は政治や社会に深く関わっていました。世俗的な権力を持つ王や貴族たちと同じく、国家や社会の中で重要な地位を占めていたのです。このように、教会が政治や社会において大きな影響力を持ち、同時に宗教的な役割も果たす状態のことを聖俗両界といいます。
造形・表現
バシリカとドームの結合
ハギア・ソフィア大聖堂
神の表現について極めて厳格な正教会では、神の座としてのドームの象徴的意味が強く意識されます。しかし大人数を収容出来る広さも確保したかったため、バシリカ*とドームを組み合わせるという手法が試みられました。そして、大ドームを脇の半ドームで支えることで、構造的な問題を解決しました。
バシリカ:広い空間を確保するための建築様式で、大人数の収容に適しています。
バシリカが登場する記事》建築-初期キリスト教
窓を帯状に配置
大ドームの足元には帯状に窓が設置され、ここから差し込む光はこの世のものとは思えない感動を呼び起こします。また、この窓の存在によって構造的な部分が隠され、まるで大ドームが天井から神の手によって吊り下げられているかのような錯覚を覚えます。
ドームやアーチの多用
サン・ヴィターレ聖堂
アーチは、ドームやヴォールト構造を支えるために使われました。
華麗な色彩表現
壁・天井は大理石とガラスモザイクの華麗な色彩で覆われ、幻想的な室内が演出されました。
参考文献
西洋建築入門|著.森田慶一|東京大学出版会
建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会
西洋建築様式史|著.熊倉洋介・末永航・etc|美術出版社
美術史〈西洋〉|編・中山公男 中森義宗|近藤出版社お知らせ
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西洋建築史年表
日本建築史年表
2025年4月24日
西洋絵画−後期印象派
一般に、スーラ・セザンヌ・ゴーギャン・ゴッホの四天王を総称して後期印象派と呼ぶことが多いです。しかし、当ブログでは個人的な趣きもあって、新印象主義(スーラ)・セザンヌ・後期印象派(その他の画家)という風に細分化しています。 舞台 フランス 印象派に続き、フランスが芸術の中心地として君臨しています。 背景 時代背景は主に新印象主義と同じです。 印象派の乗り越え 時代の寵児であった印象派も、1886年には最後の展覧会を迎え、いよいよ批判と反省の対象として乗り越えられる存在になります。 物の形を犠牲にした印象派 ...
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2025年4月24日
西洋絵画−ロマン主義
舞台 フランス 革命期から王政復古期にかけてのフランス。新古典主義が絵画の主導権を握っていた一方で、その「静的で厳粛な様式」は、人の心を真に動かす力に欠けていました。そんな中、絵画に再び「動き」を取り戻そうという流れが形成されます。 背景 ヨーロッパ各国の独立意識 「フランス革命」・「ナポレオンの侵略」という二つの事件をきっかけに、各国は「自我」に目覚めます。 古代ローマという西欧各国における「共通の祖先」から、「自国の歴史」・「風土」へと関心が移ったのです。 プロパガンダとしての絵画 ナポレオンの第一帝 ...
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2025年4月24日
西洋絵画−新印象主義
舞台 フランス 印象派に続き、フランスが芸術の中心地として君臨しています。 背景 印象派の乗り越え 時代の寵児であった印象派も、1886年には最後の展覧会を迎え、いよいよ批判と反省の対象として乗り越えられる存在になります。 物の形を犠牲にした印象派 「分析的な手法」を得意とした印象派は、物の「形態感」や「存在感」を失ってしまうという欠点を抱えていました。 新たな活路 印象派の色彩理論に共感しつつもこの弊害を重く見た後代の画家たちは、ここに新たな活路を見出します。 特徴と画家 求めすぎた理想 印象派は「光の ...
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2025年4月24日
西洋絵画−フランス・バロック
舞台 フランス 太陽王ルイ14世が主権権を握る「絶対王政期」のフランスもまた、芸術の舞台となりました。自国の土壌で独自の様式を形成して行きます。 背景 フランスへ輸入 イタリア起源のバロックは、国境を超えてフランスにも広がりました。 伝統を守るフランス しかしフランスでのバロックは、主に前時代様式の否定として展開されて来た各地のバロックと異なり、「古典主義」的な傾向を保ちます。 それというのも、古典尊重のルイ王朝は「古代ローマを美術の範」としたからです。 王立アカデミーの設立 また、王立アカデミーの存在に ...
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2025年4月24日
西洋絵画−フランス・新古典主義絵画
舞台 フランス 革命期からナポレオン時代にかけてのフランス。ナポレオンは絵画を、自らの理念の「プロパガンダ」として活用しました。そのため、絵画は記録的な意味合いを強めます。 背景 軽快なロココに対する反動 18世紀後半、「快楽主義的」で「感覚的」なロココ様式に対する反動として、美は表面的なものでなく「崇高」なものであると考える傾向が強まります。 崇高さを追求 そして、「装飾趣味」や「官能的な裸婦像」に代わって、「形而上的な内容」や「簡素で壮大な形態感覚」を備える古典美術が範とされました。 特徴と画家 相次 ...
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