作品№65

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今回は、経験論をテーマにした連作です。一枚目は「知識は後天的である-と仮定した場合」、二枚目は「経験論を越える直接経験」、三枚目は「観念連合の諸法則」です。それぞれ順を追って解説していきます。

経験論を本当にざっくり説明すると、人は全くの純粋無垢な状態から始まり、経験を積むことで、知識を蓄え、そして、この積み重ねによって、「私」という人格が形成されていくのだ、というような考え方です。つまり、あらかじめ自由意志のようなものがあって、その意志を持って経験を重ねていくのではなくて、経験が先にあって、経験の積み重ねによって意志のようなものが形成される、ということになります。

このような考え方によると、人が生まれた瞬間は、全くの白紙の状態です。白紙の上に、様々な色が重なることで、唯一無二の色が形成されていきます。この結果として形成された色が、一般的に「私」と考えられているものです。

白紙から始まるということは、全く0の状態から始まることを意味しますから、必然的に自由意志は否定されることになります。もし自由意志というものがあるとするならば、白紙ではなく、何らかの色を持った状態で始まらなければなりませんから。つまり経験論によれば、経験がその人の人格を決定する、ということになるのです。ゆえに人の行動は、その人の置かれている環境で決まる、ともいえます。

ただ、ここで勘違いしてほしくないのは、経験論=自由意思を否定している、とか、個人の意思はない、といってるとは限らない、ということです。ついさっき、経験論は必然的に自由意志を否定することになる、と話したばかりですから、話しが違うじゃないか、とお怒りの方もいるでしょう。少し捕捉させて頂きます。まず、方向性としては、経験論は自由意志を否定する方向に向かっていく、これは確かです。経験があって個人があるのですから、個人の意志は二次的になるはずです。でも、そのはずなんだけど、そうとはいい切れない、大きな壁があるわけです。

例えば、火に触ると熱い、水に手をつけるとひんやりする、これらがどのように経験されるかというと、ロックような人は次のように考えます。火という観念と、熱いという観念をそれぞれ経験によって知り、かつ統合されることによって、火に触ると熱い、という知識が得られる。同様に、水という観念と、ひんやりするという観念が統合されることによって、水に手をつけるとひんやりするという知識が得られる。このようにして蓄えられた知識が、私という人格を決定していくのだ。

しかしこの場合、火という観念と熱いという観念を結び付けるものは何なのか?水という観念とひんやりするという観念を結び付けるものは何なのか?これは経験では説明しきれなかったわけです。もちろん、ロックはこの点を考えなかったわけではありません。彼の場合、経験には、外部経験と内部経験があると考えました。外部経験においては、完全に外部の要素から経験されるが、統合や判断、反省などの内部経験はその限りではない、と。そうであれば、この内部経験というのが、自由意志にはならないでしょうか。

様式解説

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-令和四年作品