2025年3月9日
西洋建築-イタリア・ルネサンス
前の様式 舞台 イタリア・ルネサンスの舞台は、市民階級がいち早く台頭したイタリアの商業都市「フィレンツェ」です。 時代背景 イタリアは、中世において商業や金融の中心地として栄え、豊かな都市国家へと発展しました。このような繁栄の中で、芸術家や学者が集まり、文化的な交流が盛んに行われるようになります。また、イタリアでは古代ローマや古代ギリシャの文化が受け継がれていましたが、ルネサンス期において、これはキリスト教中心の中世思想に対する反発という形をとって現れました。 キリスト教世界のほころび 中世ヨーロッパ社会 ...
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2025年3月9日
西洋建築-インターナショナル・スタイル
背景 近代芸術の到達点 アーツ・アンド・クラフツ運動*から始まった近代芸術運動は、当初は手工業に重点を置きながらも、デ・ステイル*やドイツ工作連盟*などを経て、機能主義にたどりつきました。 アーツ・アンド・クラフツ運動:機械生産による大量生産と標準化が進む一方で、一つ一つの製品としての質は悪化してしまいます。これに対し、手仕事や伝統工芸品を再評価することによって、製品の質を向上させることを目的としました。 デ・ステイル:芸術によって人々の生活環境を改善しようとした点はアーツ・アンド・クラフツ運動と同様です ...
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2025年3月9日
日本建築-書院造・数奇屋
時代背景 接客空間の発展 信長・秀吉の時代を経て、戦国の混迷を抜け出すと、軍事ではなく、接客空間が求められるようになりました。 書院造 そして試行錯誤の末、「書院造」という一つの型が完成します。主に、城郭や寺院・武家の邸宅などの厳格な建物で用いられました。 風書院 ただ、形式化の一方で、その枠をあえて脱線する、遊び心に富んだ邸宅建築も表れました。数奇な人に造られた書院ということで、数奇屋風書院造と言われます。しかし、正式な建築には相応しくない格好であったため、主に山荘などで用いられました。 造形 建物の顔 ...
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2025年3月9日
西洋建築-ゴシック・リヴァイバル
背景 啓蒙主義の台頭 17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパでは、啓蒙主義が席感していました。啓蒙主義は、合理性や科学性を重視し、人間は理性的に考えるべきだと主張します。そのため、古典主義的な芸術や文化と相性が良く、古代ギリシャ・ローマの美学が模範となります。 しかし啓蒙主義が進展するにつれて、過度に理性を重視する考えに疑問を持つ人々が現れました。たとえば芸術においては、人間の感情や内面世界を無視して外面的な表現に囚われている節があり、また決まりきった規則や格式に基づくものが多く、個性や独創性が抑制する ...
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2025年3月9日
西洋建築-ゴシック
背景 中央集権の基盤が整い始める 当時のヨーロッパは、多くの小国家や地方政府が存在し、権力の分散化が進んでいました。そんな中、国王たちは中央集権化政策を進め、自らの権力を強化し、統治の効率化を図ります。王権の強化、法律の統一、行政機構の整備、課税制度の整備などが行われました。かくして、地方領主の手中にあった統治が国王の下に回収されます。 中央集権化政策:政治的な権限や権力が中央政府に集中すること。 特に勢いがあったのは、ルイ7世です。各地の貴族や教会が持っていた法的な特権を制限することで、自身の王権強化に ...
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前の様式
時代背景
仏教の伝来
六世紀半ば頃、仏教が百済から日本に伝来*しました。その教えが持ち込まれると同時に、それを体現する場として寺院建築が必要になり、それに由来して仏教建築の新技術が持ち込まれます。
聖明(百済の王子)は、日本の皇室との外交関係を深めるために、日本に渡来し仏教を伝えたとされています。
仏教を受け入れるか、拒否するか
ただ、仏教は満場一致で受け入れられた訳ではありませんでした。いわゆる、「排仏派」と「崇仏派」に分かれます。
国際情勢に明るい蘇我氏は賛成
主に「崇仏」を主張したのは、渡来人勢力との関係が強く、国際情勢に明るかった蘇我氏です。東アジアの諸国が崇仏している事実から、日本も仏教を受容するべきであると考えました。
伝統に保守的な物部氏は反対
一方で排仏を主張したのは、原始信仰との繋がりが深かった物部氏です。物部氏は原始信仰を大切にし、守り続けた氏族のひとつでした。そのため、仏教の受容は国神の怒りを買うのではないかと恐れ、これに反対したのです。
ただし、物部氏の内部でも、「原始信仰を重んじる派」と「儒教や仏教に傾倒する派」という風に、意見が割れていました。そのため、排仏の動きは物部氏の内輪もめから生じたという見方も出来ます。
決着は蘇我氏に軍配
仏教の導入によって、中国や朝鮮半島から新しい知識や技術を獲得し、政治・文化の発展に成功した蘇我氏は、仏教を排斥して保守的な姿勢をとっていた物部氏に対して優位にありました。蘇我氏は国家行事に仏教的な要素を取り入れ、権力の一元化にも成功します。一方物部氏の方は内輪もめが絶えず、仏教を信仰する者や、蘇我氏に味方する者も現れるなど、一枚岩にはなれませんでした。結局この差が勝敗を分けることになり、587年、蘇我氏側の勝利で幕を閉じます。これによって、仏教受容の素地が整ったのです。
様式の特徴
寺院建築の始まり
仏教の伝来・受容は、東アジア各国との交流の始まりを意味していました。そしてその東アジアにおいて自国の力を示すために、寺院建築が建設されるようになります。最新の仏教文化を取り入れた壮麗な寺院を備えることは、国力を内外に示すことになるからです。
技術者の渡来
これまで自国になかった寺院を造営するには、まずその技術者を必要としました。そのため、百済から技術者が渡来してきます。彼らとの交流によって、飛鳥寺や四天王寺が建てられるのでした。
造形・特徴
仏教では、「仏」・「法」・「僧」を三宝として重視します。「仏」は悟りを体現した者、「法」は仏の教えを説いた経典経巻、「僧」は法を学ぶ仏弟子です。これをそれぞれ建築に換言してみましょう。
仏=「金堂」「塔」
唐招提寺金堂
仏像を納める「金堂」は、もちろん仏を象徴する建物です。
薬師寺東塔
「塔」は仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるための建物なので、これも仏を象徴しています。
法=「講堂」「経蔵」「鐘楼」
唐招提寺講堂
仏教の教えを学ぶための建物である「講堂」は、法に分類できます。
唐招提寺経蔵
教えを記した経典を納めておく「経蔵」も、法に分類できるでしょう。
唐招提寺鐘楼
時を告げる「鐘楼」も、私たちに教えてくれる存在なので、法を象徴します。
僧=「食堂」「僧房」
薬師寺食堂
僧が食事を取るための「食堂」は、僧に分類されます。
薬師寺僧房
僧侶が居住するための「僧房」も、僧に分類されます。
伽藍配置
以上に挙げた七つを総称して、「七堂伽藍」といい、伽藍における位置関係を「伽藍配置」といいます。「伽藍配置」は、施主の要望はもちろん、時代性なども反映します。
飛鳥時代の伽藍配置
飛鳥時代の伽藍配置では、「物舎利を納めた塔」・「仏教儀礼に重要な金堂」が伽藍の中心に置かれます。
飛鳥寺
釈迦の骨が祀ってある「塔」を取り囲むような形で、「三つの金堂」が建っています。これは高句麗などに類例のある形で、朝鮮半島の伽藍形式がそのまま持ち込まれたといわれています。
四天王寺
伽藍の中軸に「金堂」・その前に「塔」が置かれています。これは百済の王興寺や軍守里廃寺と共通する形式で、このことから百済との交流が密接であった様子が伺えます。
法隆寺
回廊で囲まれた一画に、「金堂」・「塔」が並立しています。
本薬師寺
これまでは、一つの伽藍に一基の「塔」でしたが、薬師寺では「塔」が二基並べられました。
奈良時代の伽藍配置
奈良時代になると、法会*が重視されるようになり、その際に必要とされる「金堂」と、「金堂の前の空間」が大事になりました。
法会:僧侶や信徒が集まって、仏法を説いたり供養を行う
興福寺
「中金堂の前庭」を回廊が囲み、「五重塔」は回廊の外側に置かれました。
参考文献
日本建築史講義|著.海野聡|学芸出版社
建物が語る日本の歴史|著.海野聡|吉川弘文館
建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会
日本建築様式史|監修・太田博太郎|美術出版社
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西洋建築史年表
日本建築史年表
2025年3月9日
西洋絵画−新印象主義
舞台 フランス 印象派に続き、フランスが芸術の中心地として君臨しています。 背景 印象派の乗り越え 時代の寵児であった印象派も、1886年には最後の展覧会を迎え、いよいよ批判と反省の対象として乗り越えられる存在になります。 物の形を犠牲にした印象派 「分析的な手法」を得意とした印象派は、物の「形態感」や「存在感」を失ってしまうという欠点を抱えていました。 新たな活路 印象派の色彩理論に共感しつつもこの弊害を重く見た後代の画家たちは、ここに新たな活路を見出します。 特徴と画家 求めすぎた理想 印象派は「光の ...
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2025年3月9日
西洋絵画−マニエリスム
舞台 国際的な展開 イタリアに端を発したマニエリスムは、16世紀後半には国際的な広がりを見せます。 背景 反宗教改革に乗り出す カトリック教会が「反宗教改革」に乗り出す時代、「神秘的な表現」が求められるようになります。 絵画による奇跡体験 論理を持って「奇跡」を説明することは出来なくても、絵画の世界の中でならそれは可能になるからです。 劇的な表現の追求 それはやがて古典主義の特徴である、「穏やかさ」や「荘厳さ」、「静けさ」や「バランスの重視」に対して、より「魂の根源」に迫る表現に至りました。 ミケランジェ ...
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2025年3月9日
西洋絵画−ロマン主義
舞台 フランス 革命期から王政復古期にかけてのフランス。新古典主義が絵画の主導権を握っていた一方で、その「静的で厳粛な様式」は、人の心を真に動かす力に欠けていました。そんな中、絵画に再び「動き」を取り戻そうという流れが形成されます。 背景 ヨーロッパ各国の独立意識 「フランス革命」・「ナポレオンの侵略」という二つの事件をきっかけに、各国は「自我」に目覚めます。 古代ローマという西欧各国における「共通の祖先」から、「自国の歴史」・「風土」へと関心が移ったのです。 プロパガンダとしての絵画 ナポレオンの第一帝 ...
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2025年3月9日
西洋絵画−後期印象派
一般に、スーラ・セザンヌ・ゴーギャン・ゴッホの四天王を総称して後期印象派と呼ぶことが多いです。しかし、当ブログでは個人的な趣きもあって、新印象主義(スーラ)・セザンヌ・後期印象派(その他の画家)という風に細分化しています。 舞台 フランス 印象派に続き、フランスが芸術の中心地として君臨しています。 背景 時代背景は主に新印象主義と同じです。 印象派の乗り越え 時代の寵児であった印象派も、1886年には最後の展覧会を迎え、いよいよ批判と反省の対象として乗り越えられる存在になります。 物の形を犠牲にした印象派 ...
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2025年3月9日
西洋絵画−印象派
舞台 フランス フランス美術は西洋絵画史の主要舞台の座を確立しました。イギリス風景画の伝統もスペイン画家ゴヤの系譜もフランスに吸収され、オランダ画家ゴッホもこの地での修行を得て覚醒しました。 背景 印象派展の開催 1874年、モネ・ルノワール・セザンヌ・ドガ・ピサロらによって、展覧会が開かれました。 彼らの作品に共通して見られる「スケッチ的な作風」から、この展覧会に集まった彼らは総称して、「印象派」と命名されることになります。 多様性に満ちた印象派グループ しかし実際のところ、彼らには明確な意味での共有さ ...
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