なぜ難しく言うのか
今回の作品は、「難しいこと」です。特に私みたいに、難しいことを言いたがる人は、周りから「難しくいって誤魔化している」といわれがちです。なぜ私のような人種は、難しいことを言いたがるのでしょうか?今回は、その理由を、この絵と共に解き明かして行きましょう。
分かりやすいは本当に分かりやすいか
まず、皆様にとって、分かりやすい絵というのは、このような絵ですよね。「綺麗な山だな、綺麗な湖だな」と一目見て分かります。
でも、これがこうなると、「なんじゃこりゃ」ってなっちゃいます。何となく山を描いているのは分かりますが、この絵で何を表現しているのか?今一ピンと来ないはずです。
しかも、この絵は「現代絵画の父」と呼ばれるセザンヌが描いた絵ですから、ただの落書きとはわけが違います。ますます謎は深まるばかりです。
正直、こういう感じの絵の方が分かりやすくて好きだな、そう思う人も少なくないでしょう。でも、よくよく考えてみると、この絵は本当に分かりやすいのでしょうか?これが風景の絵であることは分かるとしても、なぜこの絵が描かれたのか?どういう思いでこの絵が描かれたのか?この絵で何を表現したかったのか?そういうことは、結局この絵を見ただけでは分かりません。
私たちがこの絵を見て分かることといえば、「山」「湖」という様に、私たちが元々知っていることだけです。私の中に存在していないものについては、私たちは依然として分からないままです。要するに、「分かりやすい」「難しい」以前に、「分からない」というのが実情だと思います。
言葉は主観の領域
これは言葉にしても同様です。「ありがとう」の言葉の意味は分かっていても、実際にどれくらい感謝しているか?どのくらいの感情がこもっているか?これは完全に主観の領域ですから、どれだけ言葉巧みに比喩表現を用いても、やっぱり思い通りには伝えられません。
自分ではしっかり思いを伝えているつもりでも、相手はそう感じていなかったり、あるいは自分ではそんなつもりがないのに、相手が勘違いしてしまったり。このようなことは、実際よくありますよね。簡単な言葉を使おうが、難しい言葉を使おうが、それは変わりません。
もちろん、「そこのリモコンとって」みたいに、簡単な指示をするくらいだったら問題なく意志疎通を図れますが、これが思想や価値観となると、その人のこれまでの人生経験や周囲の環境によって育まれた、その人に唯一のものとなりますから、そう簡単にはいきません。リモコンはみんなにとってのリモコンであることができますが、例えば、「善悪」の概念は、みんなにとっての善、みんなにとっての悪であることはできないのです。
これを「分かりやすく」話そうが「難しく」話そうが、共有できないものはできません。「分かりやすく」説明したからといって、人の価値観や考えを変えられるわけではありませんし、むしろ難しい言葉だからこそ、逆に抵抗や余計な偏見なく耳に入ってくる、なんてこともあるはずです。そうであれば、「分かりやすく」話すか「難しく」話すかというのは、さほど重要ではありません。「分からない」ことには違いないのです。
伝えるのは難しいこと
特に最近は、「みんなが分かるように」とか、「小学生でも理解できるように」みたいな感じで、「分かりやすく」説明することが流行っていますから、なんとなく錯覚しちゃうんですけど、そんな簡単に通じ合えるほど、人間関係は単純ではありません。伝えるという行為は、思想や価値観の異なる人間同士が交わる、本来は複雑な行為です。もちろん、だからといって何も通じ合えないままでは、共同生活なんて送れませんから、分かりやすくすること自体は仕方のないことなんですけど、「分かりやすい=正しい」と捉えるのは、場合によっては誤りであるといえるでしょう。
難しく話す理由
さて、ここまでは、難しく話すことに対しての言い訳みたいな感じでしたが、最後に、私があえて難しく話す理由を挙げておきます。それは、言葉をそのまま受けとるのではなく、一度自分の考えを挟んで欲しい、ということです。
先ほどの絵の話に戻りますが、簡単であればあるほど、あまり自分で考えなくても頭に入ってきますから、その分自分の考えを挟む余地がなくなってしまいます。山と湖があって、「ああ、綺麗な景色だな」と、自分の中で分かってしまったからこそ、そこで満足してしまいます。
でも、この絵だとそうはいきませんよね。単純に山が描いてある、では終われない。何でこんなゴツゴツした塗り方をしているんだろう?何で普通に描かないのだろう?この絵で何を表現したかったのだろう?考えずにはいられません。
このように、分からないからこそ、自分であれこれ考える余地が生まれますし、もっというと、嫌でも自分なりの考えを持って理解しないといけなくなります。そして、自分なりにあれこれ考えている間に、作者自身も意図していないような、新しい発見が生まれる、そうすれば、それは単純に誰かに教えて貰った知識ではなくて、自分自身の考えとなります。ここに、私は一番の価値を感じるのです。