今回の作品は、「建築運営論」です。何か運営についてのノウハウ系の本にありそうなタイトルですが、そういった作品ではありません。この作品は、黒川紀章さん等に代表される、メタボリズムを下敷きにした作品です。
メタボリズムとは
メタボリズムというのは、日本発の建築運動で、平たく言うと、建物にも新陳代謝が必要だ、ということを唱えた運動です。人間の細胞が日々新しいものに入れ代わるように、建物も日々新しいものに入れ代わる必要がある。たとえば、外壁のペンキが落ちてきたら、新しく塗り直して、ドアの勝手が悪くなってきたら、新しいものに取り替えて、タイルが割れてきたら、新しいものに張り替える。これって、当たり前のことなんですけど、改めて言われてみると、これを当たり前と思っていない自分がいませんか?
「何でわざわざペンキを塗り直さないといけないんだ」とか、「業者が金儲けのために、わざと劣化しやすい素材を使ったんじゃないか」とか。普通に考えると、建物が日々劣化していくのは当たり前なんですけど、なぜか建物は一度建てたらそれで百年持つような気になっている、そんなことはありませんか?
しかし、それは仕方のないことでもあります。今の時代ではそもそも、建物は「不動産」と呼ばれるように、動かないもの、という認識があるからです。一時期、地震がきても絶対に壊れない建物というのが流行ったんですけど、これも要するに、壊れない建物が良い建物、という認識があったからです。
しかし、このような認識は、結局、建物を物体の塊という風にしか捉えていないといえます。命のないものだから、ずーっとそこにあるのが当たり前になってしまっているんです。でも実際は、建物だって動物と同じように、寿命があって、怪我だって病気だってするわけです。雑に扱っていれば、その分寿命は縮まりますし、逆に丁寧に扱っていれば、いくらでも長持ちするかも知れません。ペットを育てるのと同じです。愛情をかけて接しなければいけないのに、それを単に物として扱っている。そして雑に扱っているにも関わらず、修繕が必要になると、それを無駄な出費だと感じたり。こういった状況に待ったをかけるのがメタボリズムです。建物を有機的に捉えよう、有機的というのはつまり、動きを持ったものとして捉えよう、ということですね。
先ほどは建築材料についての新陳代謝の話でしたが、機能についても同様のことがいえます。たとえば、子供部屋というのは、子供の成長に応じて変わっていく、典型的なものです。幼少期は、二人で一つの部屋、でも、思春期を迎える頃には、逆に一人一部屋にしないといけない。そして社会人なると、その部屋は空き部屋となります。このように、子供の成長に呼応して、部屋も成長していくのです。だから、設計の段階から、建物は有機的なものである、という認識を持っておかなければなりません。手を加える前提で、設計する必要があるのです。一度建てたらそれで終わり、百年間そのまま使い続けられる、なんてことは決してありません。
しかし、こんなことを言うと、「それは机上の論理だ」、という人もいるでしょう。実際、年間何十件も建てているような企業からすると、一つ一つの設計にそこまでこだわってなんていられません。売れたら次の設計、売れたら次の設計というふうに回して行かないと、業務として成り立たないのはもちろんです。一つの物件を、何十年も世話している余裕なんてありません。しかし、その結果として、一人一人生活や価値観は全然違うはずなのに、住んでる建物はみんな一様、という異様な事態になっているのも事実です。住んでいる人の成長に呼応して成長していくはずの建物が、ただの固形物として扱われている。たとえば、身長が高い人も低い人も、同じ高さのキッチンを使い、夫婦といえば、仲良く同じ部屋で就寝し、とりあえず陽当たりの一番良い場所にはリビングがある、というように。もはやそこに住む人は誰でもいい、そんな状況です。でも、そうじゃなくて、建物は住む人に応じて常に変じ行く、固定されたものではなくて、常に動いている、そうあるべきなのです。
人も建築要素の一つ
そして、このようなメタボリズムの思想を、極端な形で推し進めたのが、私のいう「建築運営論」です。仮に、設計士がどれだけ住人のことを考えて設計したとしても、それが本当に実るかどうかは、住人次第です。住人がその建物と真に呼応していれば、それは最高の建築といえますし、住人と設計士の間にすれ違いがあったり、あるいは住人の気まぐれで考えが変わった途端、それに対応出来なければ、その建築は悪いものとなります。このように、建築の真価は住人、もっというと、建物の運営にあるのだ、こう考えるのが私の「建築運営論」なのです。
要するに、人間の働きを建築の要素として考えた、これが今回の作品です。ちなみに、人間の働きを建築の要素に加える、というのは、森田慶一さんの建築論から着想を得ました。森田さんについては、また機会を改めてお話させて頂きましょう。建築の京都学派とも称され、京都学派に影響を受けている私にとっては、とても興味深いお方です。
和風住宅を描いた理由
最後に、この絵が何を表しているかを説明しておきます。見た通り、和風建築を描いているわけですが、これは和風建築が、私の「建築運営論」をよく体現しているからです。たとえば、襖などは、開けたり閉めたりするだけで、一部屋にも二部屋にも使えますし、調度品によって、瞬時に部屋の機能を変えることができます。地震がきても、壊れないように頑張るのではなく、最初から建物は壊れるものだと受け入れて、壊れても人が下敷きにならないように工夫されています。また、伊勢神宮に見られるように、建てて完成という考えで設計されているのではなく、常に修繕を前提して作られている、つまり、建物の運営という概念が、建築の要素としてすでに考えられているわけです。だから、私はこの作品で、和風建築を描きました。