作品№28

今回の作品は、「実存共同」です。主に田辺元さんや京都学派の著書にでてきます。西田哲学を象徴する「述語」、そういっても差し支えないでしょう。私とあなたとの繋がりはもちろん、死者と生者との繋がりさえも徹底的に探求する「西田哲学」の魅力が、この絵で表現できていることを願います。

まず、実存というのは、サルトルなどに代表される「実存主義」の実存です。あるいは、ハイデガーの現存在とも同様の意味です。要するに、今ここにいる私っていうのも、もちろん存在ではあるんですけど、自分が生まれる前、あるいは死んだ後までも含めた、もっと深い意味での存在のことを、実存というわけです。そして、それが協同であるということ。それはつまり、私たちは根底の部分では繋がっているんだ、ということを意味しています。

現実の世界では、なかなか私と他人っていうのは分かり合えないものですよね。お互いの意見を言うとすぐに対立してしまいますし、どちらか一方が我慢して、そのバランスを保ってはいても、いずれはその堪忍袋の尾が切れてしまう。もうこんなやつとは関わりたくない、って疎遠になる。あるいは、嫌いという感情をなんとか押さえつけて、無理に付き合いを続ける。どう考えても、私たちは繋がりあっているようには思えません。人は人、自分は自分なのだ、こう断言したくなります。

でも、やっぱり根底の部分では繋がっているのではないか?厳密にいうと、繋がらざるを得ないのではないか?これが実存協同です。例えば、私たちは地球のおかげで、今こうして生きていられますが、この地球というのは、私一人のものではありません。みんなで共有しています。みんなで共有している以上、自分勝手ではいけませんし、逆に相手に主導権を握らせ過ぎてもいけません。私たちは嫌々ながらも、繋がり合って生きなければならないのです。

そしてもう一つ、大事な繋がりがあります。それが、死んだ人と、今生きている私たちとの関係性です。普通、人と人との関係性というと、生きている人同士の繋がりをイメージします。死んだ人とはもう関われないのだから、考えても仕方がない。でも、本当に死んだ人とはもう関わりがないのでしょうか。人が死んだ途端、その関係性は強制的に断たれるのでしょうか?もちろん、そんなはずはありません。死んで終わりなら、どうして私の記憶に、死んだ人との思い出が残り続けるのでしょう。ふと魔が差して、悪いことをしそうになった時、亡くなった父母、祖母祖父の顔を思い出して、こんなことしてちゃ駄目だ、と我に帰る。この時、死者は生きている私たちに対して、働きかけている、といえます。私たちの関係性は、死を境にして終わったのではなく、むしろそこから始まっていくものがあるのです。そしてそれは、普通の意味での繋がりよりも、もっと深い意味を持った繋がりであり、それこそが本当の繋がりである、そう主張するのが実存協同なのです。

西田哲学の面白いところは、これを論理的に実証しようとしたところです。「人は死んだら終わりじゃない」、これって言葉でいうのは簡単ですけど、でもこれだけだと、ただの感情論みたいになっちゃいます。場合によって、幼稚な発想と馬鹿にされてもおかしくありません。実際、悪い意味で、西田哲学は宗教的だ、という人もいます。別に宗教的であることが悪いわけではないのですが、悪い風に捉えられることも多いのです。

そんな中で、この実存協同という概念を真面目に取り扱って、しかもそれが世界的に認められる哲学ともなった、これが西田哲学の魅力です。

感情論というと、今の時代では軽んじられがちですが、人間の感情を、学問として扱った西田哲学から、学ぶことも多いでしょう。

そして、この絵も、それにならって、感情に焦点をあてて描きました。だから輪郭線は全くありません。感情に輪郭線は必要ありませんから。ぼんやりと色だけをのせています。感情なんて理屈で説明できるものじゃなくて、常にぼんやりしているものですから。この絵の世界は、物理的な世界じゃなくて、主観的な感情の世界なのです。

様式解説

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