彼を追い詰めたのは誰?
ここで彼というのは、青い服の彼でもあって、赤い服の彼でもあります。
一見すると、赤い服の人が加害者で、青い服の人が被害者ですから、青い服の彼を追い詰めているのが赤い服の彼なんだ、ってなりますけど、じゃあこの赤服の人をそこまで追い込んだのは一体何だったのでしょうか?
この赤服の人は、生まれながらの加害者だったのか?
私はそうではないと思います。当然この赤服にも可愛い時代はあったでしょうし、この赤服が加害者にならない世界線もあったはずです。
じゃあ、なぜこの人は加害者になってしまったのか?
彼をそこまで追い込んだもの、ここには社会というものが、切っても切り離せない存在としてあると思います。
社会を切り離して考えることはできない
たとえば、犯罪者の過去がニュースで取り上げられる時、必ずといっていいほど、虐待やいじめ、貧困などの、社会問題を象徴するような単語が出てきます。
もちろん、こういう言い方をすると、私が犯罪者を擁護しているように聞こえる人もいるかも知れませんが、そういう話ではありません。あくまでも、犯罪と社会問題を切り離して考えることは出来ない、ということです。
だからこそ、社会が加害者を苦しめ、その加害者が被害者を苦しめている。そうであれば、社会が加害者を通して被害者を苦しめている、こんな言い方も出来るのではないでしょうか?
私たちと無関係に加害者が存在しているわけではないのです。加害者は、紛れもなく私たちの社会、すなわち私たちの日々の営みの中で誕生しています。
元ネタ
作品の解説はここまでにして、最後に、この絵の元ネタを紹介します。
早速答えをいうと、こちらの絵、ゴヤの「混紡での決闘」です。見た感じ、全く共通点がないように思うかも知れませんが、大事なのは、この作品に潜むメッセージ性です。
この絵の重要のポイントは、二人の足元が埋まっている、ということ。つまり、これは今どういう状況なのかというと、この二人は逃げることが出来ない、ということ。もっというなら、戦わされている、という状況です。
相手を殺らなきゃ、自分が殺られる。この時、ここにあるのは加害者と被害者という関係性ではありません。被害者と被害者です。
この絵はもしかしたら、戦争を暗示しているのではないか?私はそう解釈しています。
嫌なら逃げればいい。でも、自分の国が戦争するとなったら、多くの人は逃げ場なんてありません。殺らなければ、自分が殺られる。ここでも、社会という存在が、個人の意思をはるかにしのいでいるわけです。
もちろん、これは私の一方的な深読みなので、その点はご了承下さい。
もう一つ、この絵の元ネタがあります。モネの「散歩、日傘をさす女」です。こちらは絵の構図を参照したという感じですね。特に深い意味はなくて、ただ単にこの絵の構図が好きだったのと、たまたま頭に浮かんだイメージがこれと一致したというだけの話ですが。